戦後80年、開成町の記念イベントと、祖父のこと

もう1週間経ってしまいましたが、15日は戦後80年の記念イベントが開成町の町民センターで開催されました。開成町遺族会の主催です。写真は、遺族会会長さんと。(タウンニュースでご紹介されていました) 御父上が旧満州で亡くなり、私のような若輩者には想像し難いご苦労をされたそうです。

足柄高校の生徒や、神奈川県遺族会のメンバーなど、登壇者が複数いらっしゃいました。立場がそれぞれであっても、語り継いでいくこと、子どもへの講話や体験(慰霊碑清掃などを通じ伝えていく)に一層力を入れていくという話が、決意を込めて語られていました。


また映像や音楽などもあり充実していました。ときに笑いもあり和やかながら、多世代が思いを共有する大事な機会でした。一参加者になれて良かったです。

祖父のこと

この戦後80年という節目は特に、戦争に向かってはいけないと多くの人が思いを強くしたのでは。 語り継ぐ大切さ、とテレビや↑↑イベント中も、何度も聞いたような気がします。

親や祖父母の話としてなら、それぞれの戦争体験を語れる人がいるのではないでしょうか。 私も久し振りに祖父の話を思い出していました。

私の祖父の1人は、ウズベキスタンに抑留されて帰還しました。 シベリア抑留が知られていますが、中央アジアのウズベキスタンも当時は旧ソ連の一部であり、日本人は2万人以上が抑留されたと様々な文献にあります。(シベリアには50万人以上)

ロシアの南にカザフスタン、さらにその南にある国なので、シベリアほどの極寒の厳しさは無かったはず。シベリアで日本人兵は道路や鉄道建設をさせられたようですが、ウズベキスタンの祖父らもまた、強制労働に明け暮れたそうです。 とくに、今も残るナヴォイ劇場という建物の建設に従事していたそうです。

真ん中には日本語 「極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェール・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」。(写真はナヴォイ劇場wikiから)

建設中、いつしか日本兵の真面目な性格や働きぶりは、地元ウズベキスタンに受け入れられるようになったそうです。 それに加えて、戦後の大地震でほとんどの建物が崩壊するなか、日本人が建てた建物は倒れず、そこに避難した多くの国民を救ったと、その技術を敬う対象にまでなったそうです。

そのような敬意を込めて、日本の「捕虜」ではなく「国民」と、完成した劇場の石板に刻まれました。 このウズベキスタンが今に至る親日国になる奇跡は、本や様々なところで紹介されています。(⇒「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」)

地元のウズベキスタン人と交流があった話や、地震で倒れなかったんだ!という話は祖父が父にしていたそうです。(wikiにも逸話があります) 祖父は帰還して約30年後、祖母を連れてウズベキスタンに旅行、その建物の前で写真を撮っています。 祖父母2人そろって初めての海外。 私は祖母から、アルバムを見ながら話を聴きました。

悲惨な状況で命からがら…という土地に戻る気はしないと思うので、きっと敗戦直後の必死な日々にも、地元民との交流や仲間との時間で、幾らか心が癒されたり、忘れたくない何かがあったのだと思います。

祖父は多くは語らずに亡くなったので、抑留前の話はもう分かりません。でも上の写真の文字が刻まれた石板プレートは、あまりに特別で目を見張りました。 これが掲げられたのは90年代に入ってからということで、祖父が見ることはありませんでした。 でも、祖父が生きて力を捧げてきた証です。

(もう一人の祖父については、いつかまた)