森の中に出現した町の紹介と、町の成長期真っ只中にいた子ども時代 by 森っ子①

今日は突然の思い出話…「森」に関する官民プロジェクトに参加した話を書こうと思ったのに、先に「森の里」の話をしたくなりました。 ↑写真は、よーく遊んでいた1丁目の「ひだまり公園」。

森の中の住宅街「森の里」に住む前は団地だった

小学校低学年で厚木市の森の里地区に越す前は、隣の伊勢原市の団地(社宅)に住んでました。 自然が身近で子供が多くて、毎日楽しい幼稚園時代でした。 高校生のときに懐かしくなり、一人で約10年ぶりに訪れたことがあります。 

幼稚園児目線の記憶よりギュッと縮小されように実際は小ぢんまりしていて、感慨にふけっていました。 行っておいて良かったです。 その後、高度成長期を象徴するズラリと並んだ団地一帯は、いつの間にか見る影もなく取り壊され、新しい住宅街になっていました。  ちなみに団地の前には東京都郊外の旧保谷市(合併して現西東京市)、田んぼも商店街もある古き良き田舎、という感じのとこにいました。

森に帰ってきた!と思う、1丁目「若宮公園」。緑祭りなどあり、名前にピッタリな公園です。
 

「森の里」地区は昭和50年代後半の安定経済成長期、団塊の世代がそろそろ家を持ち子育てを・・・という時期に、まっさらな状態(山)に一括でデザイン開発された地域です。(←リンク先は愛郷心ある地元の人のホームページ)

 人口8千人規模の町でありながら、「自然環境に恵まれた町づくり」「学園施設と先端技術産業の研究施設が集まる研究都市」として学校は小中高大が揃い、富士通やNTTの研究所が次々と誘致されました。 (参考:NTT研究開発センター30周年式典「森の里から貢献できる日本の未来」) 今は青学は撤退、松陰女子短大があります。 大学跡地には日産研究所が入り、十分に”研究都市”は保たれています。

子どもの目に焼き付いた「町づくり」

森の里の端っこ、5丁目のつつじの丘公園。他の地区との境目になる小高い丘。

開発が進んでいた頃、7,8才の私は父に連れられて道の無い山道を登り、父と並んで見つからないように地面に腹ばいになって、山1,2つ分くらいを崩したばかりの工事現場を見下ろしていました。 

周囲を山に囲まれて外野の目が入らないところで、何台ものトラクターが縦横無尽に駆け回り、木を全部無くして凸凹の丸裸になった地面を、せっせと平にならしていました。 それはとても衝撃的な光景で、どこか非現実的でミニチュアの世界のようでした。 

※森の里4,5丁目辺りのこと。白山巡礼峠のある古道から反れた山道を進んでいると、厚木霊園に辿り着き、そこから下道を歩いて戻ってきた  

森の里の宅地は分かりやすく1~5丁目あります。 初期は1,2丁目だけで、4,5丁目は上記の状態、3丁目全域はまだ平らにならされた立ち入り禁止の広大な空き地でした。 

森っ子は1学年1クラス少人数体制からスタート

毎年恒例、中心地の野外ステージで「クリスマス祭り」。名実ともに西洋風になり切れてないのが丁度良いらしい。 この辺りは散歩したくなる場所。 子ども達もよく遊んでいます。

開校した小学校の一期生として転入した当時、皆が一斉に転入生で、学年全体で17名と少ないからすぐ仲良くなりました。 今でも全員のフルネームを憶えています。 兄の学年はたった6人で女子1人。初日は泣いてたけど、すぐ転入生が増えて女子3人に。 

開校したばかりの小学校の校庭に、まだ森だと勘違いしているようなウサギやモグラが出ていました。🐰 夕方にはホーホーとフクロウの鳴き声が聞こえていました。

学期関係なく転入生がぞくぞくと来て、私が6年生のときは3クラス。計画以上の増加だったのか、校舎は増築されました。 地域行事も賑わっていました。

小学生は当時からみんな「森っ子」と称されています。 高校では別地域の子から「森っ子って何?仲いいよね」と言われ。 今でも同郷者はそれで通じています。帰省するときなどは同級生と、「いつ森に帰るの?」などと普通に話します。

つづく! そして人口減少を迎えている今、隣の七沢など。